勝山のひとり話しと日記《3》勝山の青年期 20才から

高知市内の衣類店は順調の売上でお得意様回りを頑張っていましたが、23才の時に胃潰瘍になり痩せ細り入院しました。その原因は、昼は得意先回り、夜はお客様に誘われてのお酒三昧でした。高知ではお酒が飲めなければ仕事ができず、もともとお酒はあまり好きではなく飲めませんでしたので、無理がたたり入院となりました。

両親が私の姿を見て、衣類店の社長さんに「このままでは子供は死にます」と退社を願い、無理やり退社しました。
両親は人を雇い入れてでも養鶏業を守り、私の帰り待っていてくれました。私は養鶏業を継ぐか、自分自身何をしたいかを迷い、体力回復のための1年間考えました。結果、自分がやりたい仕事は『紳士服屋』と無理を良い、両親は、しぶしぶ了承し養鶏業を廃業してくれました。

24才春、山正洋服店を開業しました。商いの方法は、主に学校を回りました。恩師の先生方にお願いし、推薦状を2,000名集め、奈良県教職員互助指定組合業者になりました。教職員互助指定業者になってからは、ハイエースに洋服を吊り、主に奈良県内の山奥の学校を回り、夜は遅くまで先生の家庭を訪問しました。

26才の時には地元の洋服屋では一番の売上になり、同級生の月収入が35,000円位でしたが、私はもっと高収入を得、成功しました。
その後、恩師のお世話で結婚し、二女を授かりました。
私の恩師は10年ぶりに再会した時、私の姿を見て「あの勉強が出来ない弱虫な劣等生が何故このような人間に変革したのか?ホンマにあの山下やの?」と驚きました。
その頃、私の人生修行中に、山下家は色々な経営不安があり、昔から続けて来た山勝商店は大手の三輪素麺会社に吸収され、親父はその会社の役員、兄は課長になり、山勝商店は廃業してしました。

30才の時、洋服屋で成功した私を見た父は、「そうめん屋になれ」と言い出しました。自分の代で山勝商店は失ったが、山勝商店復活を息子に託したいと思ったのだと思います。成功した洋服屋を捨て、そうめん業に入るのはかなり抵抗ありましたが、最後は自分にそうめん屋の血が流れているのに気づいて決めました。兄と14才離れていてそうめん職人だった父は私に期待したようです。

創業時の名称は「三輪素麺やました」でした。私の妻は働き者で、朝早くから夜遅くまで二人三脚で働き続け、33才の時、洋服屋と同じ商いの方法で商売して取り込み詐欺に合い、今まで貯めた財産を全て失いどん底生活が始まりました。
その頃、人の紹介である若者と出会いました。それは不良少年で、奈良県警では有名な暴走族メンバーでした。彼が私の所で働きたいと、友人を通して言ってきました。
その少年は1人で夜に面談にきました。服装は黒づくめ、モヒカン刈で、「親父っさん、俺を雇ってくれるか雇ってくれないか、どっちやねん!」が、最初の会話でした。
結果採用しました。彼には何か惹かれる物があり目は澄んでいました。

しかし、土曜日の夜になると暴走族仲間が集まり、大きな警笛を鳴らしながらの暴走が始まり、私は度々身元引受人として警察に呼び出されます。何度か呼び出されたある日夜中の2時、警察内で大きな声を張り上げ、警察官に「制服脱いで表に出よ。一対一で勝負したろう」と言っているので、警察官の前でその子に初めて手をかけてしまい、涙を流しました 。その子は私の姿を見て泣いていました。
「おやっさん、明日から俺は変わって見せるで」と言って次の日から丸坊主になり、180度変革して素晴らしい青年になり、その後私の片腕に成長しました。私は彼の仲間を五人ほど社員で採用しました。警察車両

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